あるところに、そびえる犬と漂う猫と生やす鳥と光るうさぎと燃えるイグアナと、一人の少年がいた。
犬は言った。「おれァ筋トレしすぎてマッチョなんだ。」
猫は言った。「忍ぶのが得意なだけよ。」
鳥は言った。「種を食べ過ぎちゃったからからさ。」
うさぎは言った。「静電気体質なんだよ悪いか。」
イグアナは何も言わなかった。
少年は「そんなバカな」と呟いた。
5匹と一人は、いつも一緒だった。
その日、少年は初めての獲物を抱えて走っていた。
腐臭のするゴミ袋から漁ったものではなく、また道端で拾った干からびた何かでもない。まぎれもなく、「普通の人たちが口にするもの」である。
それは、気が付いた時には完全な自給自足の生活を迫られていた少年が、初めて手にすることができた、記念すべき初勝利の証であった。
世にも恐ろしい形相で追ってきていたパン屋の店主がもう見えないことをもう一度確かめて、暗い路地に入る。
いつも寝床にしている古いビルの非常階段下、そこに向かう途中の壁際に、見たことのない、大きな黒い犬が寝そべっていた。
犬は少年に言った。
「よぉ坊主。いいモン持ってるな。」
少年は、寝そべったままの犬を見て足を止めた。
「なあ、そいつをちぃと俺に分けちゃくれねえか?なに、全部寄越せとは言わんさ。
少々、その美味そうなつやつやのベーグルの、お相伴に預かりたいだけだ」
少年は、犬が喋るなんてありえないだとか、胸に抱えたそれが、過去のどれだけの失敗とそれに伴う罵倒と折檻を乗り越えその末にようやく手に入れたものかだとか、
そういった事実が正しく認識される前に、衝撃のために喋ることも忘れるほど真っ白でになった頭で、きょとんとしたまま―――
ただ自然に、そう、ごく自然に、二つに割ったベーグルの片方を差し出した。
犬は機嫌がよさそうに目を細め、首だけ動かしてベーグルを咥えて一口で平らげると、
「ありがとさん」
と一言だけ言った。
それから犬は、少年の傍にいるようになった。
相変わらず寝そべって、ほんの時折低くて良く通る声で喋るだけで、少しも動かなかった。
少年は、少しずつ上達する腕前でわずかだがまともな食事を持ち帰ると、やっぱりごく自然に、それを犬と分け合った。
だから盗みが上手くなっても食事の量はあんまり増えなかったが、代わりに、寒さに凍えて眠れない夜は無くなった。
それから、「笑う」ということが出来るようになった。少年が笑うと、犬も機嫌良さそうに目を細めた。
少年と犬が出会って幾度か年が巡って、ある日犬がのっそりと立ち上がった。
それまでちっとも動く気配の無かった犬が突然起きたので、少年は目をしばたいた。
そのままのそのそと歩き出す犬に、少年はついていった。
大きな黒い犬と、その後を追う少年は、町中の人たちに奇妙な目で見られながら、ゆっくりと通りを下っていった。
やがて町外れまで辿り着くと、犬がふと、姿を消した。
そこには、小さな工事現場があった。
少年が犬を探して首をめぐらした瞬間、小さな掘っ立て小屋から男が出てきた。
「だから大人じゃダメなんだよ!あんな小さい隙間にもぐりこむんで作業するんだ、ガキじゃないととても…」
そう叫びながら少年を見て、はたと止まって、しばらく見詰め合って、
「坊主、親は?」
と尋ねた。少年が首を振ると、男はちょっと考えて言った。
「住み込みで食事付き、今ならお得な作業着プレゼント。どうだ?」
少年は、きっとあの犬は神様の御使いか何かなのだと思った。
別段信仰心はないので仏様でも良かったが、とにかくそんな感じのものだったのだと思った。
自分を哀れんでくれた誰かが、ちょっとだけ手を差し伸べて、忙しいながらも満ち足りた生活を授けてくれたことに感謝した。
ただちょっと、ほんの少しだけ、そう、寂しかっただけだった。
だから少年は、一生懸命働いてお金を溜めて、やがて小さな小さな、だけど立派な自分の部屋を手に入れた時、
「よぉ坊主。おかえり」
なぜか自分よりも先に入り込んでいた、神の加護でも仏の慈悲でもなさそうなその大きな黒い犬を見て、それはそれは嬉しそうにはにかんだのだ。
「ただいま」
だってそのとき初めて、少年には家族が出来たのだから。
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